| からん、と乾いた音をたててそれは落ちた。 さらり、と音をたてそうなしなやかさで こがね色の髪が背に広がる。 「……あ」 「あれ、落ちましたよ中尉」 少し後ろを歩いていたブレダ少尉が機転を利かせて髪留めを拾い上げ――ようとして、大佐の鋭い視線にぶつかり慌てて手をひっこめる。 「…へぇ、普段止めてるからわかんないスけど、こうして見ると結構長いですね」 ハボック少尉が言うと、首のあたりにまとわりつく慣れない感触に眉をひそめながら、彼女は答えた。 「どこかの誰かさんがきちんと仕事をしてくれないから、切りに行く時間が取れないのよ」 「え」 拾った髪留めを渡そうとして大佐が固まった。彼に「無能」の二文字はご法度である。 苦笑しながら髪留めを受け取って、また髪をまとめようとした中尉の手が止まる。 「ダメね。止め金が外れてるわ」 中尉は溜め息をついて上司に向き直った。 「髪留めが壊れてしまったので、しばらくこのままでいるしかありません。暫定的にではありますが、規律に反する許可を頂けますか、大佐?」 「ああ、もちろん」 硬直から立ち直って彼は笑顔になった。 なんなら特別に許可を与えるから、いつもそのままでいないか――という提案が、向けられた小銃によって却下されたのは、言うまでもない。 軍の規律に、女性の髪型に関するそれは多くない。 「清楚・清潔であること」 長ければまとめた方がよいだろう、という程度のものである。…ただし、軍全体に関してはの話。 女性に限らず、実際に前線に立つ者は短くしておくか、少なくとも動きの邪魔にならないようまとめることが義務づけられている。 湯を満足に使うこともできないことだってある。自主的に短くしている女性が多い中、彼女の髪は軍ではかなり長いと言えた。 だから、というわけではなさそうだが。 ……視線を感じる。背後から、熱い視線を。主に、肩から背中にかけてのあたりに。 「仕事をしてくださいと、何度言わせたら気が済むんですか大佐」 「はっは、いやだなあ。仕事ならしているじゃないか」 嘘だ。ペンで書く音や書類をめくる音がしない。 ここはひとつ、顔の真横に鉛玉を…と思い振り向きざまに小銃を構えた。 「!」 発砲音は、なかった。振り向いたときに広がった髪が、彼女の視界を遮ったためだった。 もちろん、視界が遮られようが、目標物を正確に撃つことができる腕前を彼女は持っているのだけれど、その感触があまりにも久しぶりだったので、驚いたのだ。 「ちゅちゅ、中尉?!」 慌てた声がする。撃たれかけたことに驚いたのか、それとも発砲がなかったことに驚いたのか、それは定かではない。 そんな声を無視して、彼女は上司に言った。 「午後に少し、お休みを頂けますか」 「?なぜだい」 「…邪魔なので、切ってきます」 すると、彼は非常に不機嫌そうな顔をした。 「許可はしない」 「作業や任務に、支障をきたしているのですが」 「………」 「…大佐!」 こんなときだけ、仕事に没頭しないでほしい、と思う。ずるい、と押し込めた奥底で声がする。そんな感傷を、晒せる気性はしていないけれど。 「リザ・ホークアイ中尉」 改まった声で呼ばれ、むっとした顔を向けると、書類の束を手渡された。 「とりあえず、急ぐものは全部片付けた。その書類は手続きが必要なものだから、君に任せよう」 早い。いつもながら思うのは、無能無能と言われながらもこの人は、かなりのポテンシャルを有している。普段からもっとそれを発揮してくれればいいのに…と考えながら、出来上がった書類に目を通していると、彼は壁にかけてあった外套を手に取った。 「どこへ行かれるんですか?」 「少し所用がある。1時間ほどで帰るから、その間、ここにいてくれ」 供は必要ない、ということなのだろう。言外に「来なくていい」という意味を嗅ぎとって、彼女は問い詰めたものかどうか、一瞬迷ってやめた。「ついていきます」と言い募ったところで、無駄に嬉しそうな顔をされるか、上司命令と称してここにいることを義務付けられるか、どちらかだ、どうせ。 ずるいひと、だから。 「…わかりました。1時間後には、戻ってきてくださいね?その時間を超えると、急ぎの書類が増えるでしょうからそのおつもりで」 「……まさか中尉、君は私の仕事量をいつもそうやって管理していたのかい?」 「それはご想像にお任せします」 がちゃ、とドアが開いてはじめて、彼女はようやく1時間が経とうとしていたことに気が付いた。 「今戻った」 どうやら、走って戻ってきたらしい。いつも整えられている髪は若干乱れ、重たい外套をまとった肩は切らせた息のために上下している。 「ジャスト1時間ですね。できるじゃないですか」 くすりと笑いながら、外套を受け取って壁にかける。決裁の済んだ書類の束を渡し、椅子にかけた上司に必要事項の要点を伝えていく。 「そうか。いつものことではあるが、まぁ、お疲れ様」 軽くねぎらいの言葉とともに、さっき彼女がかけた外套を彼は指差した。 「左側の内ポケットに、土産が入っているから」 あげよう、と言って彼はまた羽ペンを手に取った。撃たれるのは嫌なのか、自主的に仕事に戻るつもりらしい。 「……ありがとうございます」 珍しいこともあるものだ、と彼女は内ポケットから包みを取り出して開いた。 「!」 いつも彼女がつけているのと同じタイプの、髪留めが入っていた。 中央には彼女の目と同じ、榛色の石が埋め込まれ、周りに赤い染料で綺麗な文様が彫り込まれている。 「……あげるから、切るなんて言わないでくれ」 羽ペンを走らせながら、小さく言う声が、した。彼女は微笑んで言った。 「ありがたく、受け取ります」 だからちゃんと仕事してくださいね、と。 榛色の石は彼女の姓と同じ「ホークアイ」という名であるということ、邪悪なものから身を護り、誘惑に負けない力をもつといわれていることを、(実は博識らしい)ハボック少尉から聞いて、大佐は少しだけ後悔し、逆に中尉は大いに喜んだのは、また別の日のことであった。 |