| あ、夕立。誰かが呟いて、彼女ははっと作業の手を止めた。 事務作業のために彼女にあてがわれた机には、驚くべき速度で処理のなされた書類の山がある。未処理の束もあるが、彼女の能力を考えれば全く問題はない。 もう少ししたら大佐に預けた未裁決の書類ができあがるだろう。サボりや休憩の時間を見込んだ上で、急ぐものから順に届けよう…と、ぼんやり考えていたところだった。 「おーマジだ、降ってきやがった。よく気がついたなあ」 「さっきから微妙に雷の音はしてましたよ」 のんびりと会話をするハボックとフュリーをよそに、リザは部屋を飛び出した。 「雨が降ってくれば大佐も動けなくなるし、仕事もはかどりますね」 「だな。やりぃ、今日は早めに上がれそうだ。…ところで中尉はどうしたんだ?」 雨が降れば彼らの上司は無能と化す。 部下の目を盗んで彼はしばしば外出する。 このふたつの情報がつながったとき、彼らは凍りついた顔を見合わせた。その瞬間、眩い閃光が走って、やがて重苦しい雷鳴が響いた。 「…マズった」 軒先で雨宿りをしながら、彼は呟いた。眉間には深い皺が寄せられている。 雨。ロイ・マスタングにとって最も苦手なもののひとつであった。濡れてしまえば発火布など役に立たず、雨では仮に火がついてもすぐに消えてしまう。そうでなくとも日頃から無能とささやかれているのに。 水も滴るいい男ではなく、これでは水が滴る無能ではないか。憤慨してそんなことを考えて…彼は余計に凹むことになった。全く洒落にならん、と。 「折角、丁度良いものが見つかったんだけどなぁ」 ぼやいたところで状況は変わらない。ここはおとなしく夕立が止むのを待とう、と考えていると、視界の端に往来を走ってくる傘が見えた。 味気も何もない黒い傘。今自分が着ているのと同じデザインの、しかし女物の濃紺の軍服。暗い色彩のなかに、雨水をはねちらかす白い足と、走っていることで上気した薄紅色の頬、乱れた黄金色の髪。そして、ひときわあざやかな印象の榛色の双眸。 「……中尉?」 思わず呟いた。声を聞いて、そしてその眼が自分を捕らえる。 「 」 ナチュラルな色合いのルージュの唇が何ごとかを呟いて。何と言ったのかわからず、気になって口元をぼんやり眺めていると、次の瞬間怒号が飛び出した。 「何してるんですかあなたは!」 「…中尉」 「夕立になって、嫌な予感がして外に出てみたら!案の定あなたはこんなところで雨に降られているし、仕事だって全然途中で」 「ちょ…ちょっ、中尉」 「それなのにいつもいつもいつも、人の目を盗んでは抜け出して」 「…――リザ!」 雨に濡れるのにも構わず、彼はその腕をつかんだ。大声とその衝撃に、彼女は我に返る。 珍しいことに、彼女は激昂していた。取り乱した自分を恥じるように目を逸らした彼女を見て、ロイはほっと息をつく。と同時に、押し寄せたのはこれほどまでに彼女を追い詰めたことに対する罪悪感。 「……すまなかった」 すんなりと、その言葉が口からすべり出た。もう、黙って出て行ったりしないから、と。 「約束ですよ」 憮然とした顔で言われた科白にも、黙って頷く。ちいさな声で、「心配したんですからね」と言うのを聞き逃さないように。 薄荷やメントールのような、爽やかすぎるトップノート。それとはうらはらに、時間が経つにつれて、仄かに微かにけれど確かに、少しずつ甘く匂い立っていく。扇情的で情熱的ではなく、透明感溢れるような甘さが。 そんな印象が、とても彼女らしいと思えた。 だからその香水を贈ろうと取り寄せたけれど、左側の内ポケットの中の小瓶を手渡すのは、まだ少し先になりそうだ。 「いいですか、右側の書類は今日中に全部片付けてくださいね!残業してでも終わらせてもらいますっ」 右側にも左側にもうずたかく積まれた書類の山。それを片付けるまでは、きっと彼女は決して受け取ってはくれないだろうから。 「それから、左側の書類は明日・明後日中には決裁しなければならないものですから」 「…善処します」 しばらくは、渡す瞬間とそのときの表情を楽しみにしていたいと、思う。 |