朝のリレー

 目を開けたら、まぶしい光が射してきた。強く目をつぶると、まぶたの血管が赤く透けて見える。
 ため息をついて、呆然とまた目を開けた。つまりは、寝過ごしたのだ。

 ここ三日間ずっと、徹夜に近い生活をしていた。
 肌も胃も荒れたし、吐き気を伴う頭痛がしたこともあった。文字通り、身体が悲鳴をあげていたのは知っていたけれど、あえて自分に無理を強いた。
 ほんとうはもう一晩だけ、同じ無理を重ねなければならないはずだった。
 耐え切れず、倒れるように眠りについたのは、たぶん日付が変わる前。仮眠などと言ってひとたび眠ってしまえば、簡単には目覚めないことを、よく知っていたのに。

 起きていられなかった、最後の夜。明るくなった室内にも、快晴の青空にも、その名残なんてどこにもなかった。
 いつもと変わらぬサイクルで闇を払った太陽が、空から私を見下ろした。まるで勝ち誇ったように地上を照らしている。

 ぼんやりと時計に目をやる。振り子のゆれる置時計は、午前十時。隣で充電していたケータイのLEDが、三秒に一度、短く空色に光った。メールを受信している、という意味。

 そしてそれは、最後のメール。
 私が目覚めるより前に、遠くへと旅立った、彼からの。


 昔から私は、夜更かしが苦手だった。朝、誰よりも早く起きて、夜明けの空を眺めるのが好きだった。
 一方の彼は、朝が苦手だった。新聞配達のバイクの音、鳥の声が響くまで、人々が寝静まった沈黙を楽しむのが好きだった。
 身体に染み付いたサイクルが違うだけ。誰もいない静寂を好む、私たちはきっと似ていた。そのしじまで、隣に互いの姿があることに、途方もない安心感を覚えていた。
 だから一緒にいて幸せだったと思うし、うまくいっていたのだと思う。

 別れは、なりゆきであり意思であった。
 「遠距離恋愛」という意地を張ることもできただろう。でも私はそうしなかったし、できなかった。あまりの距離の遠さに、おののいてしまったのだ。
 生まれてこのかた、ずっと同じ街で暮らす私には、「言うほど遠くないよ」と言われても実感などわかない。これが今生の別れなのだと、根拠もない妄想を信じてしまいそうになるほど。
 されど私は、引き止めたり、後先を省みず追いかけたりできるほど、子供ではなく。
 そして、待っていてあげるから、と微笑めるほど、大人でもなかった。

 だから、なりゆきだけど、意思。


 ベッドから降りて、ケータイを手に取る。メールの受信時刻は、午前四時半。たぶん彼のことだから、いつものようにその時間まで起きていて、そのまま眠らずに家を、日本を出たのだろう。
 ともに過ごした時間の長さが、「こうしているだろう」という予想を教えてくれる。日常であるほどその予想は的中して、そうして私は彼を知っていく。けれど今日からは、そんな風にして彼を知ることは叶わないのだ。

 自分の知らない彼が増えていって、それを知っていくのはとても楽しい。
 変わりゆく彼を知ることができないのは、とても辛い。

 最後のメールに、いったいどんな言葉がつづられているのか。
 もし今読んで、何かを思ったとして、返信してもレスをくれるのは彼じゃなく”mailer-daemon”。空港に向かうとき、ケータイは解約しているはずだから。
 そして私は何を彼に伝えたいのか。
 「会いたい。ずっと言えなかったけど、でもやっぱりそばにいてほしい」なのか、
 「大好き、愛してる」なのか、
 「いつまでも忘れない。だから、ちゃんと羽ばたいて、夢を叶えてよ」なのか、
 それすら自分でもわからないのに、もうどの言葉も彼に伝わることはないのだ。

 最後のメールを、今は読む勇気がない。「どうして引き止めなかったんだろう」って後悔して、きっと泣いてしまうから。
 それでも気になって気になって、内容が知りたくて仕方がなくなるに違いない。
 たぶん今夜は寝付けないだろう。そのまま私の好きな朝を迎えて、人々が変わらぬ日常を刻んでいる頃、彼は遠い地できっと眠りにつくのだろう。

 谷川俊太郎の詩が頭をよぎる。とめどなく、地球をめぐりつづける朝のリレー。
 一日の始まりを受け渡すみたいに、この気持ちが彼まで届けばいいのに。

 乱暴にタオルケットを跳ね除けて、ベッドから起き上がる。シャワーをあびて、ミネラルウォーターを飲み干して、ブランチを考えて…
 今日の私に受け渡された朝が、そこにあった。



(06’ 記、07/12/30 アップ)


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