序章 蒼き水の守り ――幾月か、前のことそれは、遠く悠かの昔。八百万の神々がいて、人々を見守っているのだと、葦原の瑞穂の国の者達が信じていたころ。 旅支度の男がひとり、山道から下の風景を見下ろした。緑の森が続く斜面は、やがて家が点在する集落へと繋がり、その奥には悠然と青をたたえた海へと開けている。 「………幸せなもんだな」 彼はひとりごちた。辺りに人影はなく、その言葉を耳に留めた者はいなかった。 その集落は、近隣でも有名なほど豊かな土地であった。眼前の大海からは海の幸が、そして今男が立つ山林からは山の幸が、どちらも豊富に得られる。 それでいて、村長の力や近隣の村との盟友関係も充実していた。このご時世では、肥沃な土地をめぐっての小競り合いや戦が頻発するのが当たり前。けれど生き字引と呼ばれる老人でさえもが、この集落が襲撃や隷属を受けたという話を聞いたことがないという。 「幸せな、もんだ。本当に」 もう一度つぶやいて、彼は再び歩き出した。眼下に見える集落――美魚岐〔みなき〕の里へと向かうために。 胸から下げた朱色の管玉が、遠雷の光を受けて微かにきらめいた。遠い、海の上に落ちた雷に、男が気づくことはなかった。 碧い海は凪いでいた。 そこには、重くたれこめていた灰色の雲の、激しい雨の、名残と呼べるものは何一つなかった。 ただ、空気中に浮かんだ水の粒子が光を反射して、きらきらと輝くばかり。 そこには、大海に落ちたわずか一滴の緋き雫など、跡形もなかった。 ただ、いつもと変わらぬ澄んだ青をたたえて、ゆらゆらとただようばかり。 でも、それまで確かに、神は怒っていたのだ。 小船の群れは翻弄され、幾人もが海に投げ出され、激しい波に木の船は砕かれ。 片手の指にも満たないほどのひとが生き延びた。 あたたかく冷たい潮に流れ流されて、やがて彼らは村に帰り着く。 その身に刻まれていたのは<罪>だった。 それでもなお、蒼穹は在り続けた。 碧い海は穏やかだった。 “To err is human, to forgive divine.”*1 True or False? |