壱章 祭りのまえ ――長月・末第二話「ただいま戻りましたー」 「二人とも、ご苦労さん。舞の練習ははかどったかの?」 真木たちが館に着くと、かくしゃくとした老婆がにこやかに二人を出迎えた。老婆の髪は白く、肌には深いしわが刻まれているが、その背筋はぴんと伸びていた。 「全然よ、おばば。真木の魂がすっかり抜けていて、話にならないの」 「あ、ひどい」 「なによ、本当のことじゃない。つまりつまりの舞なんて、私は嫌よ」 「今は気乗りしないだけなの。真尋に細かく指摘されなくても、当日は一糸乱れずできるってば」 老婆の口から「舞の練習」という言葉が出た途端、二人は姦しく騒ぐ。帰る道すがらの、しんみりした空気が嘘のようだ。 しばらくの間、やりとりを老婆は黙って眺めていたが、やがて張りのある声でこれを諌めた。 「真木はほんに気まぐれだねぇ。お前さんの舞は派手で見ていて胸がすくと、皆が楽しみにしておるぞ。舞は得意だろうから心配はしていないが、しっかりおやり。 それから、真尋も。お前さんの美意識は確かだから、きっと美しい舞になるのであろうな。なれど、美のみを追い求めて舞への士気を下げるのは、祭りには相応しくない。気をつけることだね」 「はい」 老婆が言葉を発すると、不可思議な威厳がその場を満たす。二人とも神妙にうなずいた。 この老婆こそ、美魚岐の里を支える大巫女、その人であった。 もっとも里の女たちは、敬意と親しみを込めて大巫女を「おばば」と呼ぶ。成人女性たちは皆、一度は彼女とともに暮らした身だ。その明るい性格も手伝ってか、大巫女は里の女たち、皆から慕われていた。 「おお、そうじゃ。真木、祭りで着る装束が今しがた届いたぞ」 「え、ほんと?!」 見たい!!と真木は館の奥へとすっとんで行ってしまう。ぽかんとする真尋に振り向いて、大巫女はからからと笑った。 「士気とは、あのようにして上げるものよ」 「毎度のことだけど、これを着て舞うかと思うとわくわくするわ……」 うっとりと真木はつぶやいた。 祭りでこの特別な装束を着ることは、三人の巫女にのみ許される栄誉。その華やかさを見れば、士気は勝手に上がってしまう。 一緒に装束を眺めていたひとりの少女、瑞枝[みずえ]がぽつりとつぶやいた。 「きれいね…。私がこれを着て舞って、ほんとうにいいのかな」 「いいに決まってるでしょ!おばばが選んだんだもの。瑞枝は初めて祭りで舞うから、きっと緊張するけど…すごく、楽しいわよ」 瑞枝は十三で巫女の館に入るまで、訳あって遠方の里で育てられたそうだ。 初めて会ってからもう一年半近くが経つ。 控えめだがしっかり者の瑞枝は、美魚岐の者たちから概ね好意的に受け止められ、着実に立ち位置を築いたと真木は思う。 美魚岐の育ちではないのに、祭りの三巫女に選ばれて良いのだろうか…なんて心配は杞憂のはず。 立ち居振る舞いの上品な瑞枝の舞は、きっと祭りに映えることだろう。 「そっか。そうだと、いいな」 真木の激励に、瑞枝は微笑んで答えた。 「そういえば、遅いね。おばばも真尋も」 「確かに…」 真木が館の廊下で別れたきり、二人とも部屋に戻る様子がない。 「ちょっと、見てくるよ。なんだか心配」 真木が戸口に向かうと、館の前で騒がしい気配がした。大巫女が数人に指図をしながら、慌ただしく里長の館へと向かって行った。立ち尽くしたままの真尋に、何事かと訊ねる。 「この前、漁にでて嵐に流された人たちがいたわよね。遠くの浜に打ち上げられて、帰ってきたらしいの。ひとり」 十人あまりが流されて、生き延びたのはただひとり。真木たちと同じ年頃の、周水[あまね]という少年だった。 里人の家は、「海[みず]の巫[かんなぎ]の家」「水の巫の家」「風の巫の家」というように、それぞれの神を祀る家に分かたれている。 かつては、それぞれの加護を受ける者たち、縁の深い者たちが神を祀っていた。しかし世代が移り変わり、血筋が混ざり合い、いつしかその制度は便宜上のものとなった。 水の巫の家を、除いては。 大巫女の幼い頃では、海水風のそれぞれの家はほぼ同数だったらしい。しかし水の巫の家は血筋が混ざることを嫌い、次第に人が減っていってしまった。 先日嵐で流されたのは、わずかに残っていた、水の巫の家の者たちだった。 美魚岐が水の加護を受けられなくなっては、里の存亡に関わる一大事となる。そのため、里長と大巫女はこのところ次善策のための相談を重ねていた。 水の巫の家に生き残りが居たという報せが入ったのは、その矢先のことだった。 |