弐章 宵の占 ――長月・末第一話人の話し声がする。板敷きの床を行きかう足音、衣ずれの音。それらは、いずれも生活音と呼ぶべきものだ。そう気づいた途端、意識がゆっくりと浮上した。 目を、開ける。明るい、昼間の光が飛び込んだ。 生き延びて、しまった。 周水[あまね]はゆっくりと辺りを見回す。広い板の間と、立派な柱から考えて、里長の館だろうか。ともかくも、自分が生き延びてしまったことはわかった。 どれぐらい長く、意識を失っていたのだろう。めまいがひどく、大きな石を乗せたかのように頭がずしりと重い。腕に力が入らず、上体を起こすことができなかった。 首から上を動かして、ふたたび辺りを見回す。すると、首にかけていた青い石が胸の上から敷布の上へと滑り落ちた。 「………あ」 青い石の照り返しが瞳を射て、周水はそれまでを思い出した。 (たしか、誰かに助けられて……じゃあ、それでここまで連れてこられた?) 放っておいてくれ、と頼んだ記憶はある。 「そのままのたれ死なれても、こっちの寝覚めが悪いよ。俺の信条に反するから、近くの里まで連れて行くぞ」 そんな答えが返ってきて、たしかまた意識を失った。それは、嵐のあとの浜辺でのこと。 そしてその前は……と記憶をたどっているうち、周水の表情が凍りついた。 (確かめないと) ひどく、足元がふらつく。当初は膝が震えて、ろくに立てなかったほどだ。それでもなんとか里長の館を抜け出して、近くの浜まで歩いてきた。 秋晴れの空は澄んだ色をしているけれど、風が強く、眼前の海は少し時化ている。向かい風は周水の髪を乱し、荒れる波は周水へと牙をむくかのような勢いがあった。 胸元の石を握り締めて、周水は立ち止まった。それ以上、海に近寄れない感覚があった。近寄ってはいけないと、頭のどこかが警鐘を鳴らしていた。ひっきりなしに、うるさいぐらいに。 (やっぱり) 海だけが荒れた光景を前に、周水は立ちつくした。やはり海は、海の神は、彼を許しはしないのだろうか。 そのとき、風向きが変わった。向かい風が追い風になり、波の勢いが急速に衰えていく。何事かと目を見張っていると、背後から声が風に乗って飛んできた。 「ちょっと!あんまり近づくと、これから潮が満ちてくるよ」 舞の練習を終えて、巫女の館へと戻る道の途中。何気なく海に目をやった真木は、浜にたたずむ一人の人影を見つけた。 長月晦日[みそか]の祭りは、あと二日と迫っている。晦日が近いということは、新月が近いということ。潮の勢いが、もっとも強い頃合だ。満潮へと向かう時間帯に、波打ち際でぼんやりしていては、あっという間に波にさらわれる。 思わず声をかけると、人影が振り向いた。その顔を見とめて、真木たちは絶句する。 「……周水」 里長の館で養生しているはずではなかったか。もう身体は回復したのか。いちどきに親族を亡くしてしまったけれど、大丈夫だろうか。美魚岐[みなき]から程近い浜辺で旅人に助けられたと聞いたが、どんな人だったのか。 頭の中が、次々に疑問でいっぱいになっていく。何から訊ねたものか、そもそも彼のこの度の不遇に、何と声をかけたら良いものか。真木が言葉に詰まっていると、狼のうなるような低い声が聞こえた。 「放っとけよ」 「はあ?何よ、それ」 心配して声をかけたのに、何という言い草だろうか。周水へ言葉を投げかけることへの、真木のためらいが消えた。 「水際でぼうっとしてたら危ないでしょう、大潮が近いんだから」 「別に、どこで何しようが俺の勝手だと思うんだけど」 間髪入れずに返された言葉はにべもない。声には、拒絶と呆れ、怒りの色が濃かった。 「確かに、何をしようと周水の勝手だし、死にたいのなら止めないけれど。それでも、めでたい祭りに水をさして穢れを持ち込むのはやめてちょうだい」 売り言葉に買い言葉。かっとなって、口走ったのはそんな怒りだった。 祭りは目前に迫っている。やっと舞の練習も気合が入って、良い出来になりそうなのに。死という穢れがあれば、祭りを行うことはできなくなる。祭りの代わりに殯[もがり]を行うなんて、あんまりだ。 「祭り、ねえ。そっちが巫女のお勤めをさぼるのも、それはそれでお前の勝手だよな。結果、風の神を鎮められなかったとしても」 真木は風の巫女である。舞の練習に身が入らなかったとしても、普段のお勤めをさぼった覚えなど無く、ましてや嵐のひどさが風の巫女のせいだと言われるのは心外極まりないことである。 「里では、何も無かったわよ」 「……何だって?」 無性に腹が立っていた。その怒りを抑えようとするあまり、真木は淡々と話した。 「嵐があったという日、里では神の怒りに触れることなど何も無かったの。今日のようにいいお天気で、風だって強くてもそよ風程度だったわ。波だけが静かに荒れていたけれど。里では何も無かったのだから、海の上で何かあったのではないの?神の怒りに触れるような、何かが」 勢いにまかせて、そこまでを一気に言い放った。周水の表情が険しくなる。背筋に寒気が走りそうなほど、低い声で返答があった。 「何を、知っている」 「何も、知らないわよ。風の巫女と言ったって、占なんてまるでできない、名ばかりの役立たずですから?」 巫女の少女たちに任されるのは、あくまで大巫女の身の回りや占の環境を整えること。それ以外のことでつべこべ言われても、真木にはどうしようもないことだ。 役立たず、と自虐的な一言を吐くと周水が口をつぐんだ。それを見て溜飲を下げる一方で、「役立たず」という言葉に少なからず傷ついている自分がいた。 「ガキの口げんかだか、痴話喧嘩だか知らないけど。その辺にしとかねぇか?」 そのとき、聞き覚えの無い声が割り込んできた。 |