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水の守り

弐章 宵の占 ――長月・末

第二話

 里長の館に突然の客が訪れたのは、昼下がりのこと。普段より、里人がひっきりなしに行きかう場所であるため、突然の客は珍しいことではない。
 大した驚きも無く客を出迎えた里長の妻は、客より伝えられた内容に仰天した。
 「あの、周水、もう外出して大丈夫なんでしょうか?今近くの浜辺で、真木と口論になっているのだけど」
 瑞枝の言葉に、妻の早苗は慌てふためいて病床を確認し、部屋がもぬけの空であることにようやく気づいた。

 「ガキの口げんかだか、痴話喧嘩だか知らないけど。その辺にしとかねぇか?」
 初めて耳にする声だった。真木が振り向くと、見たこともない男が呆れたように自分たちを眺めていた。
 誰、これ。
 疑問を覚える一方で、頭の半分が急速に冷静さを取り戻す。同じタイミングではっと我に返った瑞枝が、里長の館へと走っていくのが見えた。
 「……あんた」
 呆然と周水がつぶやいた。まだいたのか、と言うのが真木にも聞こえた。
 「おかげさまで。ボウズを送り届けた見返りに、しばらく逗留させてもらってるよ。そっちは女と口論できるほど元気になったか。流石に、六日も眠り続けただけのことはあるな」
 飄々とした物言い。やや乱暴な口調は、美魚岐やその周辺の里では聞かれないもの。周水を里まで送り届けた、旅の者だと真木は理解した。
 「そんなに眠っていたのか、俺は」
 「らしいな。回復が早いってのは、若い証拠だろ。何にせよ、意識が戻ったんなら良かったじゃねぇか。でも、まだ顔色は優れないみたいだから、無理はするなよ」
 男の台詞に、しばし周水は物言いたげにしていたが、やがて諦めたのか、ため息をひとつついて口をつぐんだ。
 「旅の方ですか?どちらの里からいらしたんですか」
 一部始終を眺めていた真尋が、歩み寄って訊ねた。余所行きの笑顔は、そうと悟らせないほどの上出来。若い娘に話しかけられて、悪い気はしないのだろう。男は破顔して答えた。
 「ああ、あちこちを旅して回ってる。珍しい物や、新しい情報と引き換えに、また変わった品や情報を手に入れる。綺麗なお嬢さんにも出会える、いいご身分だ」
 お世辞が上手だこと、と真尋はにこやかにかわした。褒められて上機嫌と気づいたのは、恐らく隣にいた真木だけだっただろう。口角がほんの少しだけ上がっている。
 「俺は炎[ほむら]という。気が向いたら、覚えといてくれ」
 里長や瑞枝がやってくるのが見えた。周水を探しにきたのだろう。それを目ざとく見つけると、男は短く名乗ってきびすを返した。
◇          ◇  里長に連れられて、周水と炎が去っていく。周水の足取りは少しおぼつかなくて、回復が完全でないことをうかがわせた。
 「派手に口論したわねぇ」
 その後姿を眺めて、おかしそうに真尋がつぶやいた。珍しいね、と瑞枝が後に続ける。
 「いつもは、真尋の方が早く怒り出すのにね。真木が先に怒り出すなんて、どうかしたの?」
 知らないわよ、と真木はぼやいた。怒るのは気の強い真尋、なだめるのは辛抱強い瑞枝。普段なら、真木は「口論は嫌い」と言ってその場から去ってしまう方なのに。
 あのとき波が、周水に襲い掛かるように見えたのだ。一瞬だけ。そして、周水はその波へと向かっていくように見えたのだ。
 たぶんそれがひどく嫌に感じて、かっとなってしまったのだろう。それにしては、少し言い過ぎてしまったような気もする。
 「やっぱり、放っておけないほど心配なんでしょ」
 真尋がにまっと笑う。違うったら、と真木が困っていると、瑞枝までもがとんでもないことを言い出した。
 「そうかもしれないね。嬥歌[かがい]でひとり取り残されていたら、放っておけなかったりしそう」
 「な、何よ瑞枝まで!ありもしないことを、言わないでちょうだい」
 「どうかしら。あったら面白いと思うのよね。真木が放って置かれない確証もないわけだし」
 楽しんでいる真尋に向かって、ついに真木は怒りが頂点に達した。
 「嬥歌で誰かに言い寄られたって、相手になんかしないわよ!嬥歌なんか、殯の次に大嫌いよッ」
 巫女の館に帰る気などしなかった。真木は今来た道をひとり、走って引き返す。

 嬥歌[かがい]。歌垣とも呼ばれるこの催しは、美魚岐では祭りの次の夜に行われる。子供と老人を里に残して、山の中腹まで皆で登るのだ。火を焚いて踊り、楽しむ。
 ささやかな贈り物を想い人へと捧げ、とっておきの和歌を詠み交わす。未婚の者たちだけでなく、夫婦となった者もただの男女として参加する、いわば恋の祭りだ。未婚の者にとっては、歌と贈り物を捧げることがそのまま求婚の意になる。だから年頃の者たちは、皆嬥歌を心待ちにするもの。
 美魚岐では、男女ともに十六歳で嬥歌に出る資格を与えられた。


 時間など、止まればいい。嬥歌になど出たくはない。
 叶わぬことと分かっていても、真木はそう願わずにはいられなかった。

(07/10/16)


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